英雄たちの選択「毛利一族の関ヶ原 歴史を変えた“選択の連続”」感想

2015年07月26日

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 ※関ヶ原展を観に行った際に撮った写真です。

 関ヶ原といえば、徳川家康と石田三成の戦いというのがやはり有名でしょうか。しかしながら西軍の総大将は毛利輝元であり、いくつか鍵になる部分に小早川秀秋、吉川広家など、毛利家の面々がおります。
 今回はその毛利家の関ヶ原の戦いについての特集です。主人公は毛利輝元ですよ!
 以前は厳島合戦の特集もありましたね! とても好きな合戦の一つなので、非常に楽しく拝見しました。

 今回は関ヶ原ということで、ずぶの素人なりに色々と見てはいたのですが、見れば見るほど色々な意見があり、どう解釈すればいいのか分からないと。まぁ昔の話であるので、これが正解であるというのがない以上、それこそロマンなのかもしれませんね。

 
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 東京国立博物館 本館13室:2015年7月22日~2015年9月23日

 関連記事:大関ヶ原展(東京展)に行ってきました
 http://jory1999.blog55.fc2.com/blog-entry-1877.html

 毛利秀元も所有を経たという、国宝の短刀が東京国立博物館で展示されております。こちらの刀、上記URLでも画像が拝めるのですが、まさに見事な美しさで、絶対に本物を観に行こうと意気込んでおります。
 関ヶ原にも関係深い毛利秀元ですので、載せてみました。


 以下は番組の感想です。






 関ヶ原の戦いは慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に行われたものです。
 これらについて詳しく記述しますとそれだけで終わってしまいますので、番組に沿って毛利を中心に書きたいと思います。

 関ヶ原の戦いでの毛利家(今回の番組では小早川秀秋については殆ど触れていないので割愛します)が陣取った場所は南宮山であり、東軍の徳川家康が陣取った桃配山を攻めれば、家康側はひとたまりもない場所です。

 配置図(Wikipedia) を見てもわかりやすいと思いますが、配置図だけ見たら西軍有利ですよね。
 毛利輝元は西軍の総大将であるにも関わらず、関ヶ原では動きませんでした。輝元自身は大阪城におり、代わりに秀元がというわけなのですが、ではなぜ動かなかったのか。
 しかし輝元自身が完全に東軍であったかと言えば、輝元は西国制覇を目指しており、東国迎撃作戦を三成と…というわけであった経緯があり、という謎を呼ぶ形の導入部分でした。


毛利輝元とは

 1553年1月に毛利隆元の嫡男として、郡山城にて誕生。
 しかし輝元が11歳の時に、隆元が急死したため家督を継ぎますが、実権は祖父である元就が握っていました。
 
 そんな輝元がどういう人生を辿っていたかと言いますと、15歳の時に、全て元就に伺いをたてることを誓う起請文を出し、更には元春や隆景という頭の上がらない叔父たちがおり、意見をしてきて、なおかつ元就から説教され…ということで、このままでは身がもたないとなってしまいます。しかしながら実績も経験もない輝元では祖父や叔父の補佐指導の下で働くしか道がありません。
 更には家臣たちにも悩まされ、輝元の采配に抗議する者も。
 八方塞がり状態の輝元の救いの人物は、秀吉でした。元就の死後、輝元は豊臣政権の意向を利用して確立し、それゆえに豊臣政権が続いてくれるのが望みだったのではないか、というお話が出ておりました。

 しかしながら秀吉が死去してしまい、揺らぎ始めます。
 そこで三成と家康の戦いに発展しますが、輝元は秀頼に対しての奉公と、家康と共に支えるという書状を出します。その一方で三成たちへは、三成たちと心違う者がいれば話し合うというものを送っており、どちらにもそういうものを送っていたことになりました。
 
 ですが、毛利家も一枚岩ではなくなっており、違う考えを持つものがいました。その代表が吉川広家です。宰相殿の空弁当で有名な方でもありますね。
 その広家は、黒田長政宛に、家康と共にというのが毛利の生き残る道であるという起請文を送っておりました。
 そんな広家を排除の方向で考えたのが輝元でした。


 ゲストの皆さんを交えてのお話では、元就の過干渉の話題も出ておりましたね。元就は酒を戒めておりましたが、そのせいで飲み方まで注意していたと。
 また、叔父たちが生きていた時と、亡くなってからの時代では性格が違うという興味深いお話も出ていましたね。
 五大老や五奉行制度のお話も出ておりましたが、この時に画面に映ったものは隆景は既にない五大老が載っておりました。この制度は家康からみたらおもしろくないであろう制度だろう、と香山さんが仰っていたのも印象的でした。
 こちらの番組はそれぞれ戦国時代の専門家の方から、別の専門家の方、精神科医などそれぞれの分野から見たお話というのが聞けるのもまたミソですよね。


関ヶ原への道のり

 前田利家の死後、事態は動き出します。
 七将襲撃事件が起き、そのとき輝元は家臣へ手紙をあてたようです。それは三成の失脚を悲しむことと、家康を父や兄のように思うとも。というわけでこの時点でもまだどちらにすべきか悩んでいたというのが伺えます。

 この辺りで、あの有名であり非常に長い直江状というわけで上杉討伐へと、家康は動き出します。
 この時に輝元は、次に狙われるのは自分ではないかと認識し、ついに三成に味方すると判断します。ここで動き出すのが、後に三成たちと処刑されてしまう安国寺恵瓊です。恵瓊は、三成と密会し、輝元がいない中で総大将に担ぎ上げることに成功。これには輝元は全く関わっていなかったとされておりますが、三成の挙兵は事前に知っていたのでは? というお話になりました。

輝元は三成の挙兵を事前に知っていた?

 その理由として挙げられたのが、密約の直前右筆を派遣していること。そして、言うことを聞かない家臣には自分の名前で動きを抑えるようにとしていたそうです。
 その中に、三成の挙兵に関しても入っているのではないか、そう思わせるフシがあるものが山口県に書状として残されているようです。そちらが一斎留書というものでした。こちらは実際に閲覧出来るのかは謎ですが、しっかりと現存しているのを拝めました。

 更にそれだけではなく、一族総出で出発しているのにも関わらず2日で大阪していることも挙げられておりました。
 通常1週間以上かかるものを、2日で到達は不可能であり、事前に綿密に計画を立てていたからこそ出来たのではないか? という説があるようです。

決戦地をどこにするか

 家康は内府違いの条々を出されて敵になり、上杉討伐を中断して戻ってきました。そこで輝元は決戦地をどこにするかという選択を迫られます。
 この時点で家康は江戸城であり、うまく行けば上杉と挟み撃ちが出来る東国まで出陣か。はたまた三成との作戦で、輝元が浜松まで出陣し、家康がのぼってくるのを待つか、というのもありました。しかしこの作戦は東海道の大名が家康側という障害が。

 出陣以外では、大阪城にとどまるかというのがあります。
 萩藩閥閲録には、高虎の家臣の調略出来るみちやら、加藤嘉明の領地には準備出来しだい出発せよなどなど、四国大名の領地をその隙に手に入れようとしていた痕跡もあったようです。
 しかしこれらの選択は、既に家康が西へ兵を進めていたため、結局は大阪城にとどまることになりました。
 
広家の心

 動かない輝元に代わって、広家が前哨戦に出陣しますが、反撃に合ってしまい、たった1日で吉川勢は300名以上の死傷者を出し、10分の1を失ってしまいます。
 もともと家康につくべきと主張している広家ですが、黒田如水からも書状が届き、更には東軍は岐阜城を1日で落としてしまうということに…


 そしてターニングポイントとなるのは9月7日。
 毛利は南宮山に陣取ります。指揮官は毛利秀元です。その中、広家は本多忠勝と井伊直政を和議を結び、領国がそれまでどおりであることと、輝元のことも含め前日に広家が単独で行ったと言われております。
 が、不可解な点があると。
 ここが見ていて非常に興味深いところでした。

 家康は最初は赤坂におりますが、本陣を桃配山に移動させます。そして毛利がいる南宮山はまさに近所。広家が麓を陣取りますが、横には恵瓊、後ろには秀元がいます。
 そして家康は毛利の陣へ防御しないまま本陣をたてているのです。更に、桃配山へ移動するには南宮山の前にある中山道を通らなければなりません。
 この時点で広家だけが家康に味方していたのであれば、恵瓊はどうして攻撃しなかったのか。広家が関ヶ原の戦いで秀元たちを抑えたようにしていたのでしょうか?
 家康が防御しなかった理由としては、広家がかわした密書に、輝元にとっては前線にいる武将に伝える係となっている武将である、福原広俊(重臣)の名前があったからこそ、この密書は広家だけでなく、毛利の意向であると考えたのでは? とも。
 この辺りの部分は色々と調べねば! と学習意欲が湧きますね。恵瓊の気持ちや動きは一体どうなっていたのかと。
 
動かなかった毛利

 いざ! と、戦いが始まりますが、結局毛利が取った行動は「動かない」というものでした。
 東軍だとしても東軍のためにも働かない、西軍のためにも働かない。結果として家康の天下が決定されましたが、密約通り、領国安堵というのはありませんでした。輝元の行動が問題視され、2カ国への厳封。動かない代償は非常に大きなものでした。

 もし西軍が有利になれば起請文は破り捨てて動き出し家康を攻撃した可能性も、というのはどうだったのでしょうか。
 しかしながら、毛利が動いていれば戦闘が長引いてしまい、日本のためにはある意味よかったのではないか、という意見も出ていて面白かったですね。更に結果としては明治で、毛利が徳川をと思えば最後の最後は勝ったということも言えますが…。

 この広家という人物についてもまだまだ自分は調べが少ないので何とも言えません。毛利のために動いたのは事実ですが、改易に繋がったのも事実であり、だからと言ってどうすればよかったのかと思うと、皆目…。

 今回は輝元や広家にスポットが当たっておりましたが、秀秋にもスポットを当てますとまた色々と深いでしょうし、恵瓊については益々気になってきました。
 やはりこういう番組は楽しいですね! もっともっと色々と知りたいと思いますし、大関ヶ原展も今度は福岡展ですが、西軍の様子が更に分かるでしょうし、こういったものがまた開催されれば嬉しいなとも思います。
 関ヶ原の戦い、それぞれの武将を調べていくだけでも相当に面白いだろうなぁと思いました。色々なゲストからの意見が聞けるこの番組、また毛利のお話も見られたら嬉しいなと思います。
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コメント

  1. マリ | URL | 1JkepbtE

    拍手レスです

    はちさん

     はちさん! いつもありがとうございます!
     なんと! 京都展にも行かれたようで。もう終了してしまったようですね。しかしかなり毛利のものも多かったと公式ツイッター等で拝見し、どこでもドアがあれば…と(笑)
     京都展は空いていたのですか…! 噂によると地域的にそれほど徳川派というのではないというのもあるのではないか、というのも聞きましたが果たして…。
     本能寺にも寄られましたか! そういえば信長様のお墓は相当な数がありますよね。初めて聞いた時に、「そんなに!?」と思った記憶が。
     本能寺は色々な武将にとって思い出というか色々とある地でしょうし、そこに訪れると感慨深いものがありますね。

     こちらの番組そうでしたか!
     また再放送がきっとあると思われます!! なかなか毛利に注目した関ヶ原というのもないのではないかな、と思いましたのでおすすめしたいですね。是非アンコール放送もあってほしいです。
     吉川家の立場、同じく思います…。毛利の為を思ってやったはずなのにと思うと、やるせなくもなりますね。この辺りのことはもっともっと調べないといけないなと思いつつ、関ヶ原は本当に大きすぎる出来事だったのだなと思いますね…。
     今回は毛利に絞っての特番でしたが、秀秋殿を含めればまた更に色々と複雑だったかと思うと、また2とかやってほしいくらいでした。

     はちさん、幕末もお詳しいのですね!!
     また是非色々とご教授くださいませ~!

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